田所家(分家・西昆陽2)の、阪神大震災

建ってゆく団地(今日現在、5階部分の工事に着手されています)

さて。1985(平成7)年1月17日。わたくしはどこで何をしていたか。よーく考えながら思い出しますね。昔は、この写真の壁面辺りに、市営西昆陽住宅6号棟がありました。今では、取り壊されて、一旦更地にした上で、新しいタイプの団地を建てておられます。忘れもしない、6号棟2の階段、304号室が住所地でした。震災当時から、コンクリート製の躯体が、どちらかにゆがんでおり、例えば、台所の天井がひび割れるだとか、それを修繕する(はつった上で、モルタルで仕上げる)ことをお願いした記憶があります。

なにせ、NTT西日本の回線は不通で電話ができませんでした。PHSは持っていたかどうか、記憶があいまいです。震災後、コンビニに買いに走った記憶がありました。携帯電話は全くなかったような覚えがあります。「ハウディ」という青い(もしくは白い)電話機しかなかったような記憶があります。越して来た平成3年に、当時のNTT武庫之荘電話局まで買いに行きました。電話機を。まだまだ家電量販店では充分な量の電話機が置いてない時代だったような記憶がうっすらとあります。ミドリ電化(現:エディオン)でも置いていなかったような記憶がございます。

何度も申し上げます通り、当時は勤労学生でした。千葉県立千葉工業高等学校で、体育科の単位が主に不足しており、それを補って高校を卒業する必要がありました。阪神印刷株式会社(当時)の写植課に勤務し、DTPオペレーターを行いました。それと同時に、土日、あるいは日月には、勤労学生控除を受けながら、兵庫県立青雲高等学校(通信制普通科)に通っていました。

しかしながら、阪神間の東西の交通は寸断されていました。例えば、JRが甲子園口駅まで。阪急神戸線が西宮北口駅まで。阪神電鉄本線が西宮駅までなどなど。そこから西は、バス路線などによる代行輸送などの大変な状況になっていましたから、容易に神戸市長田区に行くことが出来ませんでした。

自転車で、国道2号線を西へ西へ行ってみた記憶が一度だけあります。国道2号線は、国道43号線と神戸市内で合流し、名前を国道2号線と称して西へ伸びています。神戸市役所本庁舎(何館か不明)が、座屈しているのが見えました。大開通(だいかいどおり)が陥没しているのが確認できました。雨が降って、凹んだ部分が水たまりになっていました。これでは神戸高速鉄道は電車が通れず、開通できません。そんなことを思う間に、神戸市立西市民病院(神戸市長田区)まで到着し、3階か6階(今では忘れた)が座屈している現場を目撃しました。浜手ではなく、高速長田駅のダイエーの北側にある山手の学校(神戸市長田区池田谷町)でしたので、狭い坂道を自転車を押しながら歩きました。県立長田商業高校に併設されている学校でしたので、旧校舎が全壊、新校舎と、青雲高校は無事、という案配でした。これでは、授業にならないのは当たり前。道や、グラウンドがひび割れている上に、旧校舎を使った授業も出来ないことから、そそくさと元来た道を帰りました。それからも、森南町(神戸市東灘区)などの、家屋の倒壊現場を目にしつつ、倒壊していない箇所も見つつ、尼崎市北部の自宅に戻って来たわけですが。今は、もうありませんが、本当に、重たいぶっといタイヤの青いママチャリでした。案外、パンクにも強かった記憶があります。

校長先生の取り計らいで、僕ら在校生は、平成7年度の単位は、申告したとおりに免除されました。(通学に危険を伴うという学校側の判断による)平成8年度は、僕の場合、残りの単位をこなすだけという状態になり、体育4や、国語表現、倫理ぐらいをやったような覚えがあります。そして、おかげさまで卒業できましたけどね、ようやくです。84単位を取って卒業しました。

学校のことは、ここまで思い出せたのですけども、職場のことも書きますか。職場は前述のように、阪神印刷株式会社(当時)というところでした。なお、阪神電鉄とは資本関係はありません。独立していました。情報弱者である同僚のプライドを傷つけないように、徐々に自分なりのIT革命を起こして行ったわけですよ。日本語106キーボードも珍しい扱いを受ける、そんな職場です。(写研の、一寸の巾キーボード操作がそこでは主流でした)これは、どげんかせんといかん、と思って、Windows 95(NEC PC9821)を触り始めたんです。まずは、覚えが良い女の子から教えました。すると、みるみる打鍵速度が上がるのです。さて、何か作品を作り、DTPエキスパートを取るぞ、と意気込んでいたその年、阪神大震災が発災しました。尼崎市東難波町にあった社屋は、3階から1階にトイレの水が漏れるだとか、活版印刷部門が、手が付けられない状態に陥り(活字が全部床にぶちまけられているような状態)、DTP部門も、奇跡的に故障は免れたものの、全部後ろから蹴飛ばされたような状態になっており、みんなで復旧させました。

しかしながら、Windows 98 が出始める頃には、主力の尼崎市役所さんが、まず情報化されました。なので、そこからの受注が減りました。次いで、市内の大手企業さんが、情報化されました。そうすると、阪神印刷株式会社は、することがない(苦笑)のです。なぜならば、CMYK4色の刷版を用意するおカネだけで、結構いいプリンターと、パソコンのセットが買えて、お仕事を自分ところの会社で内製化できたからです。これに、Windows 2000 が出る頃には、まったく仕事がなくなり、ただ出勤しているだけ、キーボードを磨いているだけ。営業は、途方に暮れて愚痴をこぼす、輪転機もあまり回らなくなり、輪転機部門もぼやき始める。辛うじて軽印刷、軽オフだけが回っているような状態で、ついに社長さんが全員を集めて、会議を行い、会議の席で仕事を取ってきてください、と頭を下げられる状態になり……。やがて、新社屋もろとも撃沈しましたけどね。整理解雇ですよ。レイオフですよ。僕は、その年の4月に職業訓練校(ポリテクセンター兵庫)に行きましたけどね。

その後、自己破産申請(さくらカード株式会社に対して)を行ったり、いろいろな目に遭ったのですが、出来るだけ良いことだけを覚えておくようにしています。悪いことは、出来るだけ忘れるようにしています。

長くなりましたが、阪神大震災……1月17日を前にすると、どうしても、気分がダウンするんですよ。兵庫県尼崎市に住み続けているとね。でも、25年経ったいま、写真のように立派な団地が建とうとしています。8階建てのオシャレな建物です。風呂場からシャワーが出ることだけでもうれしいのに、エレベーター付きですよ。隔世の感があります。このように、皆さんのおかげで生きていられるんだなあ、と実感しつつ、再就職先を探っている次第です。そんな小僧も、もうじき50歳です。オジンの仲間入りです。オジンの皆さん、これからもよろしくお願いします。

ではでは。

田所稲造 拝

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